
1981年の発売以来、『野菜嫌いをなおす魔法のドレッシング』として嬉しいお声をたくさんいただいている「ピエトロドレッシング 和風しょうゆ」。2023年春頃には、おかげさまで累計出荷本数(※)が“3億本”を突破する見込みのロングセラー商品です。(※自社調べ)
しかし、ピエトロのはじまりはドレッシングではなく、一軒のスパゲティレストランでした。小さなお店の厨房で、ドレッシングがどのようにして生まれ、なぜ全国展開の看板商品にまで成長したのか。創業者である故・村田 邦彦氏とともにその店を立ち上げたメンバーの一人であり、現在、株式会社ピエトロの代表取締役会長である西川 啓子氏へのインタビューを交えながらお届けします。
●「博多の人間が10分も待つかい!」スパゲティが茹で上がるまでの時間をもたせようと考えた季節のサラダとドレッシング
ピエトロのはじまりは、1980年12月に福岡市・天神三丁目の路地にオープンした小さなスパゲティレストラン『洋麺屋ピエトロ』。当時は珍しかった“茹でたてのスパゲティ”と、“和と洋が融合したオリジナルテイスト”を楽しめるお店を目指しました。しかし、そこには1つの大きな課題が。そしてその課題こそが、『ピエトロドレッシング』誕生のきっかけとなったのです。

――ドレッシング誕生のきっかけともなる、レストラン創業前に浮上した「課題」とは何だったのですか?
(西川)当時のスパゲティといえば、茹で置きのソフト麺のようなパスタを温めなおして、上からソースをかけるか絡めるかというものでした。そもそも、九州で“麺”といえば、コシがなくやわらかいうどんが主流です。そんな中ピエトロが目指したのは、日本人がふだん食べている食事の感覚で、茹でたての、絶妙に芯を残したアルデンテのスパゲティを楽しんでもらうこと。でも、博多っ子はせっかちです。レストラン創業前から相談にのってくれた友人たちの反応は良くなくて、「博多の人間が、10分も麺が茹であがるのを待つかい!(待つわけないでしょう!)」と、口を揃えて皆が言うんです。そこで、麺が茹であがるまでの時間に前菜として召し上がっていただけるよう考えたのが、季節のサラダ。そしてそこにかけたのが、シェフである村田が厨房で仕込んだ、“しょうゆベース”のオリジナル和風ドレッシングだったんです。
――なぜ、しょうゆベースのドレッシングをオリジナルで作ったのですか?
(西川)ピエトロが和と洋の融合するオリジナルテイストを模索していたことと、村田の好みです(笑)。村田は酸っぱいものが苦手で。でも、当時市販されていたドレッシングはフレンチタイプくらいしかなくて、その酸味が日本人には不向きだなあと思っていたんです。だから、村田はいつも生野菜にしょうゆと果汁をかけて食べていました。とはいえ、レストランでしょうゆをそのままかけるわけにもいかないので、しょうゆベースのドレッシングをつくることに。基本のドレッシングは、調味料にお酢やレモンの絞り汁などの酸味を合わせますが、試行錯誤してピエトロが辿り着いたのは“たまねぎの搾り汁”でした。たまねぎの搾り汁をあわせると、しょうゆの旨みが引き出されるんです。さらに味わいを深めるために、すりおろしたにんにくやしょうがを足してみたり、彩りもかわいらしく赤いピーマンを入れて、香りの良い黒オリーブも入れて…と、いろいろな組み合わせを試すうちに、今と同じ“和風しょうゆ味”のドレッシングが誕生しました。
●「サラダにかかっているドレッシングをわけてほしい」という声から、ドレッシングだけを店頭販売するように
こうして、何とかオープンを迎えた洋麺屋ピエトロでは、当時では珍しい「茹でたてのスパゲティが来るまでサラダを食べて待つ」という新しいスタイルが見事にヒット。満席になったすべてのテーブルにサラダが出るほど浸透しました。そんなある日、サラダにかけた“ドレッシング”にスポットが当たる出来事が起きます。

――“ドレッシング”が注目されるようになったきっかけを教えてください。
(西川)お店のオープンから2、3ヶ月が過ぎた頃だったと思います。ランチタイムの混雑が一段落したくらいの時間に、お一人のお客様がお店に入って来られました。そして、「ここで出しているサラダのドレッシングをわけてもらえませんか?」とおっしゃったんです。続けて嬉しそうに、「うちの子は野菜が嫌いなんですが、ここのサラダはおいしいと言ってよく食べるんです」と。もちろん、その頃は販売もしていませんでしたから、専用の容器もなかったので、お店で出していた小さいサイズのワインの空き瓶に入れてお渡ししました。「お代は?」と聞かれたので、「400円でいかがでしょう」とやり取りしたのがきっかけです。
そのあと「驚いたけれど、嬉しいこともあるものだな」なんて思っていたら、誰かが言い出すのを待っていたかのように、「ドレッシングをわけてほしい」というお客様が続々とお店に来られるようになったんです。今でもたまに思い出すのですが、空の一升瓶を提げたおじいさんが、「生野菜にかかってる“ソース”をここに行ってわけてもらって来い、と家のもんに頼まれた」とおっしゃって、遠方から自転車で来られたこともありました(笑)。
――その後、どのくらいでドレッシングは商品化されたのですか?
(西川)次第にドレッシングだけを買いにお店に来る方も増えてきて、「さすがにワインの空き瓶では失礼なのでは?」と村田と相談し、専用の容器を探しに行きました。たまたま、オレンジ色のとんがりキャップが付いた市販の容器を見つけたので、それにドレッシングを詰めてお店のレジの横で商品として販売をはじめたのが、1981年6月。オープンからちょうど半年が過ぎた頃でした。

●「スパゲティ屋のオヤジで終わるつもりはない」。ドレッシングの事業展開を決意し、百貨店での販売も開始
ついにレストランでの店頭販売をはじめた「ピエトロドレッシング」。少しずつ口コミで評判が広まり売れ行きは好調、深夜まで仕込みに追われる日々が続きました。そんな時、村田氏が事業家である大先輩から「事業を展開するならドレッシングじゃないか?」とアドバイスを受け、自分のお店以外でも販売する決断をします。
――洋麺屋ピエトロの店頭販売以外では、どのような売り方をしようと決めたのですか?
(西川)「地域一番店にだけ置いてほしい」、それが村田のこだわりでした。ドレッシングが売れるなんて夢にも思っていない、それこそお店がオープンするよりも前から、「オレはスパゲティ屋のオヤジで終わるつもりはない。事業として展開していくつもりだから、社長と呼んでくれ」とスタッフに言っていたくらい、商売人として一流を目指していた人でした。だからこそ、自分のお店と百貨店でしか買えないという付加価値をドレッシングに持たせたかったんです。当時はドレッシングの仕込みはもちろん、ボトルに詰めてキャップを締め、ピエトロのシールを貼るまでのすべての工程が手作業。作れる数が限られているのだから、最も注目度が高く、最も品揃えにこだわるお店に置いてほしいという思いもありました。

――百貨店での販売を開始して、ドレッシングの売れ行きはどうでしたか?
(西川)1983年10月、一番最初にお話を持ちかけてくださった博多大丸で販売をスタート。徐々に売上が伸びた翌年の1984年には、福岡を飛び出し、東京の日本橋三越でも販売を開始しました。でも、日本橋三越では思うように売上がふるわなくって。私も東京へ行って試食販売をしましたが、地下の一角、生鮮食品の売り場だけは活気がなかったんです。今でこそ“デパ地下”はたくさんの人で賑わっていますが、当時の百貨店は贈答品や海外のブランド品を買いに行く場所という感じで、生鮮食品の売り場では人を探すほうが大変だったくらい(笑)。
あんまり売れないものだから、担当の方が気をまわしてくださったのか、販売から半年ほどした頃に「日本橋三越のテレビショッピングに出演してみませんか」と声をかけてくれました。正直ほとんど期待していませんでしたが、せっかくだからと試しに出演してみることに。ところがそのテレビ出演が、ピエトロの運命を大きく変えることになったんです。

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